KARMAYOGA

  • Karma(カルマ)
  • Vaidika karma(ヴァイディカカルマ)
  • Prasāda buddhi(プラサーダブッディ)
  • Karmaの3つのレベル
  • 3つのリアリティ
  • Karmaの法則
  • Karma yogaの定義

Karma(カルマ)

Karma(カルマ)とは行いの意味です。自己の本質に対する無知によって自分とは何かを正しく理解せず、間違った結論によって望ましい結果を得ようと執着することからの行いであり、それをする人が行い手、kartā(カルター)です。身体や考えなどを自分であると結論付けていることから、自分は小さく取るに足らない存在で、他者を含む世界は大き過ぎて圧倒されてしまい、足りようとする願望が起こり行いをします。他者から認められたいと思うことから相手を傷付けたり、蹴落とす行為は悪い行いになり、他者を助ける行いが良い行いになります。行いの結果をkarma phala(カルマパラ)といい、良い行いの結果、puṇya(プンニャ)、悪い行いの結果、pāpa(パーパ)を膨大に造り出します。その結果を消費するためにあの世やこの世を往来し、karmaの結果を体験することで消費しています。それをsaṁsāra(サンサーラ)、輪廻といいます。

自分とは小さな存在ではなく、世界も大きいのではなく、その両方を含んだ宇宙全体が自分自身でありĪśvaraイーシュヴァラ)であると理解できるよう最も純粋な考えを準備するために、結果への執着を識別して、Īśvaraに捧げる行いによって、行い手の観念を手放すことがkarma yoga(カルマヨーガ)であり、その生き方をする人がkarma yogī(カルマヨーギー)です。

自己の知識を理解して行い手の観念から自由になることが人生の結論、mokṣa(モークシャ)です。行いをすることによって行いを手放し、行いの中に行いがないことを見ていきます。

まずは他者の利益のために与えること、dāna(ダーナ)と、Īśvaraを祈りの対象として日々の行いを儀式、yajña(ヤッニャ)にして、束縛された考えのエゴを明け渡して希釈していきます。自己の本質の知識を学ぶことそのものが崇高な儀式、jñāna yajñaであり祈りですので、日常生活全てをĪśvaraへ捧げる祈りに変えていくことです。祈りの対象はŚivaやSarasvati、Kṛṣṇaなど、どのお気に入りの神、iśtadevatāでも大丈夫です。それらは全てĪśvaraの現れです。どのような人も現象も全てはĪśvaraの現れです。そう見えるようにantaḥ karaṇa śhuddhi(アンタッカラナシュッディ)、綺麗な考えを準備することがkarma yogaです。Rāga(ラーガ)とdveṣa(ドヴェーシャ)、愛着と嫌悪から生まれるあらゆる間違いを識別しながら自分の考えを整えることがtapas(タパス)、苦行です。このdānayajñatapasは、たとえmokṣaを得た後でも最後まで続けるよう教えられています。

Vaidika karma(ヴァイディカカルマ)

Karmaの中には一般的な行いの他に、Vedaで申しつけられているvaidika karma(ヴァイディカカルマ)があります。

  1. Kāmya karma:カーミャカルマ:望んだ結果を生み出すための儀式
  2. Nitya karma:ニッテャカルマ:毎日の儀式
  3. Naimittika karma:ナイミッティカカルマ:特別な日に行われる儀式
  4. Prāyaścitta karma:プラーヤシュチッタカルマ:間違った行いを正すための儀式

Karma yogaの目的は、富や子孫、地位など望むものを手に入れたいと願い祈る儀式のkāmya karmaを手放して、毎日の儀式であるnitya karmaを行うことです。それによってantaḥ karaṇa śuddhi、考えが浄化されて準備が整い、自己の知識を理解してmokṣaを得ることができます。そのための儀式をする人をkarma yogīと呼びます。欲しいものを望んではいけないのではなく、法則によって与えれば与えられることを見ることです。

Karma、行いをすることによって人生の結論である本当の幸せは手にすることはできません。幸せの源である自己の本質を理解できる知性を養うための準備の生き方がkarma yogaです。

聖典の中では神聖なる儀式について教えられていますが、現代の私たちが完全な形でvaidika karmaをすることは難しいことです。したがって、考えの準備をするkarma yogaとは、やるべきことをやること、つまり与えられた役割、svadharma(スヴァダルマ)を全うすることです。やりたいことをやる、好きなことをする、嫌だからやらない、避けるなど、愛着、rāga(ラーガ)と嫌悪、dveṣa(ドヴェーシャ)からの理由で、やるべきことをやらないことや他人のすべきことをすることは全体の秩序を乱す結果となり得ます。人生は小さな選択の連続ですが、わずかな選択がrāgaとdveṣaから起こる場合は考えを浄化することはできず、一時的には心地良いかもしれませんが、ずっとその心地良さを維持するためにやりくりし続け忙しくなります。その考えが自分の最も一番近くにある妨げであり、それを超えた客観的な見方を養うことはできません。自分の行いの選択をdharma(ダルマ)にしていくことです。

Prasāda buddhi(プラサーダブッディ)

役割を通して起こることは、自分にとって必要なものが必要なときに全てĪśvaraから与えられているprasāda(プラサーダ)であると理解し、たとえ痛みや苦しみの結果であったとしても、それによって乗り越える術を身につけることができれば困難さが容易に変わり、同じような体験をしている人に共感的で受容的な態度で優しく手を差し伸べられる成熟した人間性が養われます。そうして成長のために与えられていると理解できれば、嫌なことを避けて望ましい方を選ぶrāgaとdveṣaを中和していくことができ、物事の捉え方全般が変わっていきます。その考えをprsāda buddhi(プラサーダブッディ)といいます。

与えられていることが分かれば、日常生活の中でもやるべきことが全てĪśvaraへの捧げ物になり、生活環境全てが祭壇となり、行いを祈りであるyajñaにすることができます。

Karmaの3つのレベル

私たちが行いをする時、3つのレベルがあります。

  1. Mānasa karma:マーナサカルマ  :思考レベルでの行い
  2. Vācika karma :ヴァーチカカルマ:言葉レベルでの行い
  3. Kāyika karma :カーイカカルマ :身体レベルでの行い

行い手の観念から生じる願望は、他者への配慮に欠け自分本位な欲求からの執着になり、間違った観念から様々な感情が生じて客観的な見方を妨げます。その主観的な考えをĪśvaraに明け渡すことで祈りになり、行いの結果を求めることへの執着が薄れていきます。そして物事の全てにĪśvaraを見る努力をすることで、客観的で論理的な思考になり、他者への配慮によって相手を満たすための考えになります。

言葉を話す時には思考が伴います。その思考が整っていれば客観的であるがままのことを捉えた理性的なものになります。しかし、間違いを多く含んだ主観的な見方では、話す言葉も間違いが多く、人を混乱に陥れる原因にもなります。言葉は人の心に火を付ける原動力でもあります。励ましや賞賛、他者を認める言葉は人の喜びにもなり生きる活力にもなりますが、嫉妬からの悪口、非難の言葉は人を傷付け、怒りの炎を燃やし争いの発端にもなります。

言葉を発する時には真実を話し嘘は言わず、人の喜びになることや役に立つ言葉を話すべきであり、喜ぶことであっても嘘は言うべきではありません。人を傷付ける言葉は本当のことでも言わないことが必要です。そして話す内容は質と量、ともに適切であるよう心がけるべきです。

身体を使うことは、まず思考から始まり、自由意志によって他者の利益になることを選び取り行動をすることで多くのpuṇyaを生み出します。反対に、自分本位の考えから生じる願望から執着になる行動は、他者を傷付けることや何かを奪う結果となりpāpaを生み出します。考えと言葉と身体を使った行いが最も結果を生み出します。考えをĪśvaraに明け渡し、Īśvaraを讃える言葉に変え、Īśvaraに捧げる行いにすることが祈りになります。それは単に家や神社仏閣にある祭壇に向かって祈りの儀式をすることだけではありません。日常生活の全てが祭壇であり出会う人も物も現象もĪśvaraです。社会に貢献する時、他者の利益を考え言葉を話し、行動することが祈りの儀式となります。Dharmaに調和し、思考と言葉と行いが一つに一致している時、私たちが最も欲しいものを叶えるための道が開かれる恩恵を授かるためのpuṇyaをたくさん生み出します。

日頃の物事の見方にも客観的な目を養い、法則や秩序を見て正しく理解し行いをしていくことが大切になります。

3つのリアリティ

人間が物事を見る時、3つのリアリティがあります。

  1. Pratibhāsika:プラティバーシカ   :主観的なリアリティ:まるでそこにあるように見えるもの、本当ではないもの
  2. Vyāvahārika:ヴャーヴァハーリカ:客観的なリアリティ:道徳観や倫理観、法律や規範、科学や学問(この中には間違ったものもある)
  3. Pāramārthika:パーラマールティカ:絶対的なリアリティ:Īśvara、最も崇高な真実、秩序、法則、意識(自分自身)

Pratibhāsikaにはたくさんの間違いが含まれています。これがdharmaに反するadharmaを選択する原因でもあります。自分と世界に間違いを上乗せして不安や恐れを抱き、足りない自分を足りるよう満たすために欲求が生まれ、その欲求が満たされないと嫉妬から怒りになり人を傷つける行いになります。その根本的な原因は、自己の本質に対する無知から起こることです。自己の本質の知識は聖典からしか得ることはできません。
本当はそこにないものを見ていることを識別し、社会生活の中では必要な社会規範や知識に従うvyāvahārikaを正しく見て、物理的な見方だけではなくその背景も含めた法則を見るpāramārthikaに沿った選択をしていくことが自己成長になります。

Vedaの前半の章で教えられていることは、道徳観や倫理観を養うことも当然含まれています。それだけではなく、Īśvaraを見ることによって主観的な上乗せで物事を捉え感情が上がったり下がったり、dvandva(ドヴァンドヴァ)していた未熟な考えから、思考を拡張させて広く客観的に見るよう成熟していくことです。

Karmaの法則

私たちがどれだけ望ましいものを得て望ましくないものを避けるrāgaとdveṣaで物事を選択したとしても、返ってくる結果は4種類です。

  1. 思った通りの結果
  2. 思った以下の結果
  3. 思った以上の結果
  4. 予想もしていなかった結果

この4つがあります。

それはdṛṣṭa phala(ドゥリシタパラ)、目に見える結果や、すぐに叶う結果だけではありません。Adṛṣṭa phala(アドゥリシタパラ)、目に見えない、いつ返ってくるのかわからない結果も膨大にあります。

自分がそのすべての原因であり、過去世も含めてこれまで自分がしてきた行いの結果が蓄えられて、必要な時に必要なものが返ってきます。

Karmaの結果を望んで幸せを手にしたとしても、全ては一時的なものです。永遠の幸せを手にするためには真実を見抜く能力が必要です。

結果への執着を識別して、日常の行いをĪśvaraに捧げる行いとして生活の場を祭壇に見立て、出会う人や起こることの全てがĪśvaraであると理解することによってantaḥ karaṇa śuddhi(アンタハカラナシュッディ)、考えが浄化され準備ができると、最後の結論である自己の真実が簡単に理解でき、mokṣaといわれる本当の意味の幸せに到達します。
自分自身とは何かを正しく理解するためには、論理的思考がとても大切であり、聖典を学んで自己の知識を得ながら整理整頓された綺麗な思考、明晰さによって偏見のなさを養う生き方がKarma yogaです。

その因果関係がkarmaの法則であり、それを統括しているのがĪśvaraです。身に覚えのないことでも、記憶にはない行いの結果が膨大に蓄えられているために起こることです。

Karma yogaの定義

Bhagavadgītā 2章 48節 50

योगस्थ: कुरु कर्माणि सङ्गं त्यक्त्वा धनञ्जय
सिद्ध्यसिद्ध्यो: समो भूत्वा समत्वं योग उच्यते ४८
yogasthaḥ kuru karmāṇi saṅgaṃ tyaktvā dhanañjaya
siddhyasiddhyoḥ samo bhūtvā samatvaṃ yoga uchyate 4-48
Dhana
jñaya(ダナンジャヤ)よ、執着を放棄して成功にも失敗にも等しくとどまり、yogaにしっかりととどまり行いをしなさい。この考えの偏見のなさをyogaと呼びます。

बुद्धियुक्तो जहातीह उभे सुकृतदुष्कृते
तस्माद्योगाय युज्यस्व योग: कर्मसु कौशलम्   ५०
buddhiyukto jahātīha ubhe sukṛtaduṣhkṛte
tasmād yogāya yujyasva yogaḥ karmasu kauśhalam 2-50
Samatva buddhi
(サマットヴァブッディ)、考えの均一性を授かった人は、この世界でpuṇyapāpaも手放します。Karma yogaは行いに思慮分別を持つことです。したがって、自分自身をkarma yogaに専心させなさい。

 
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