法と秩序であるdharma(ダルマ)を守り道徳に従って生きてきた主人公のArjuna(アルジュナ)。従兄弟のDuryodhana(ドゥルヨーダナ)の嫉妬から、何度も陥れられ殺されかけ、自国からも追放されてきました。
ある日、Duryodhanaの陰謀によってPāṇḍava(パーンダヴァ)兄弟5人の長男、Yudhiṣṭira(ユディシュティラ)が賭博に誘われ、サイコロを自在に操れる叔父のŚakuni(シャクニ)によって繰り返しサイコロ賭博が行われました。その結果、Yudhiṣṭira自身の持ち物どころか国も兄弟も妻も身分も何もかもを失い、12年間森で暮らし、もう1年は身分を隠して誰にも明かしてはいけないという条件で過ごすことになりました。Dharma神のご加護を受けて彼らは正体を知られることなく約束の13年を迎える時がきました。
国を返してもらうよう親戚のKṛṣṇa(クリシュナ)も巻き込み、Duryodhanaの父親であり国王でもあるDhṛtarāṣṭra(ドゥルタラーシュトラ)に対しても何度も和解交渉を試みましたが、Duryodhanaは自分がdharmaであると主張し一歩も譲りませんでした。こうしてKurukśetra(クルクシェーットラ):Kuru一族の戦争が始まりました。
ArujunaとDuryodhanaの二人は偶然にも同じ時、Kṛṣṇaの元へ相談に行きました。戦争で戦うことはしないというKṛṣṇaは二人に、Kṛṣṇa自身を取るかKṛṣṇaの軍隊nārāyaṇa(ナーラーヤナ)を取るか、そのどちらかを選ぶよう提案しました。年下が優先される風習のため若い方のArujunaから選択をするよう求められ、Kṛṣṇa自身を取りました。その時、DuryodhanaはKṛṣṇaの軍隊nārāyaṇaを取ることができたと、心の中で大喜びし舞い上がりました。
そしてKṛṣṇaはArjunaの乗る馬車の御者となり、戦場を共にしました。
Duryodhanaへの恨みと復讐に燃えたArjunaは、見晴らしの良い場所へと馬車を移動させるようKṛṣṇaに頼みました。そこで見た光景に深い悲しみを抱き髪の毛を逆立て、震えた手からは弓を落とし、跪いて目に溢れんばかりの涙を浮かべていました。
そこから戦うようKṛṣṇaに諭されながら、Arujunaの葛藤による問答が始まり、自己の本質の教えに至る物語がMahābhārata(マハーバーラタ)の中心に置かれたBhagavadgītā(バガヴァッドギーター)です。

Smṛti : Bhagavadgītā
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叙事詩Mahābhārataの中心にあるBhagavadgītā
Vedaを4つに分類し編纂した聖者 Vyāsa(ヴャーサ)によって描かれた、戦争を舞台にした物語です。Vyāsa自身もこの物語の主要な人物として登場しているため、この戦争に登場する人物の多くを知っているのです。
ある日、Brahmā jiからこの戦争を目撃していたVyāsaに、叙事詩として残すよう頼まれました。Vyāsaは言葉で話す際に、膨大な内容であるため書き残してくれる有能者を探していました。そこで、Ganeśa(ガネーシャ)であればこれを執筆するに値するという天からの啓示を受け、Ganeśaに話を持ちかけました。その時、Ganeśaから一つ条件を提案されました。それは、Vyāsaがこの物語を休むことなく一気に暗誦してくれるなら、私も休むことなく一気に書きますとのことでした。VyāsaはGaneśaの条件を飲み、彼も一つだけ条件を出しました。この物語の筋書きや文章を全て完全に理解して書くように頼みました。Ganeśaはそれに同意し、自分の右の牙を折って筆にしてものすごい速さでこれを執筆しました。しかし、あまりにも複雑な内容を含んでいるため、Ganeśaは理解のための間を取り、その間にVyāsaも次に進む内容を整理して組み立てていきました。
こうして、Vyāsaによって話された物語が、Ganeśaによってわかりやすい形に全文を要約され、膨大なテキストであるMahābhārataが作られました。10万もの詩句から成る世界で最も長い叙事詩となったのです。
このような理由で、正統なGaneśa像は右の牙が短くなっています。
復讐に燃えたArjunaが戦場の真ん中の小高い丘に馬車を停めた時、目の前に見た光景とは。
敵軍の中にはこの国で最も屈強で偉大な英雄たちがずらりと並んでいます。その中には愛する祖父Bhīṣma(ビーシュマ)や、弓を教えてくれた尊敬する恩師Droṇa(ドローナ)など、大切な人たちがたくさんいたのです。
Arjunaは、彼らを殺すなんてこの戦争に何の意味があるのか、人を殺して罪を負わなければならないのなら戦うことはできないと弱音を吐き、戦場から逃げ出したい一心でした。
Arjunaは、この戦争をせずに、社会から引退して世俗的なことから身を引いた生き方のsannyāsī(サンニャースィー)を選んだ方が良いのではないかとKṛṣṇaに問いました。
復讐と愛情の両極の感情が込み上げ、葛藤するArjunaに戦うよう何度も諭したKṛṣṇaは、与えられた役割、svadharma(スヴァダルマ)を全うしやるべきことをすることに意味があると説き、karmayoga(カルマヨーガ)とは何かを話し始めました。国の法と秩序を守るdharma(ダルマ)に統治するためには、秩序が乱れたadharma(アダルマ)を破滅させなければならず、そのためには本来国を治める王位継承権のあるArjunaがその役目を果たさなければならないことを何度も何度も繰り返し伝えました。たとえArjunaがその役目を放棄したとしても、adharmaに支配された国はいずれ滅びることになる運命であることを話し、KṛṣṇaはArjunaに神の目、vidyācakśu(ヴィッデャーチャクシュ)を授け、Kṛṣṇa一人の中にこの宇宙のすべてを見せる姿のviśvarūpa(ヴィッシュヴァルーパ)となり、物理的な目では見えない世界を見てこの戦争の未来の結末をも見ることになりました。そこで見たものは、想像を遥かに超えた世界で、美しい天界だけではなく見るも悍ましいものも全て目にしました。そこで恐れを抱くArjunaに、神 Bhagavān(バガヴァーン)であるĪśvara(イーシュヴァラ)と分離していると恐れや不安からの行動を取ってしまい、Īśvaraに抗った行いになればそれ相応の結果を手にすることと、Īśvaraと共にある人は安心してĪśvaraへの愛を持ち考えを明け渡すことができ、Īśvaraを愛し喜びも苦しみも平等に見る人はĪśvaraから愛され、最も望ましい恩恵が与えられることを教えました。
こうしてBhagavadgītāの教えの真髄に入っていくのでした。
Bhagavadgītāの前半はkarma yogaについて詳しく述べられており、その中で瞑想する方法、dhyāna yoga(デャーナヨーガ)や、神への献身であるbhakti yoga(バクティヨーガ)が教えられ、最後の結論である自己の本質の知識を学ぶ jñāna yoga(ニャーナヨーガ)についても教えが始まります。
それを理解するための知性を養うべく、この戦いから逃げることなく、個人の観念から生じる愛着、rāga(ラーガ)と嫌悪、dveśa(ドヴェーシャ)、つまり望ましいものと望ましくないものの両極を識別して自分の与えられた役割、svadharma(スヴァダルマ)を全うするよう話し続けました。
私たち人間が苦悩する理由は、このrāgaとdveśaから起こる執着によるものです。これを識別することで、今まで望ましいものを追い求め手に入れては失う恐れや不安の繰り返しで、望ましくないものを避けようと逃げることで、果たすべきことをせず、受けるべき結果を受け取らずに過ごしてきたことから苦悩し続けるのです。
そして、その根本的な原因は自分が何者であるかの無知から起こる間違った自己認識からの欲求です。
Bhagavadgītā Cgapter2 Verse 62〜68
ध्यायतो विषयान्पुंस: सङ्गस्तेषूपजायते |
सङ्गात्सञ्जायते काम: कामात्क्रोधोऽभिजायते || ६२||
क्रोधाद्भवति सम्मोह: सम्मोहात्स्मृतिविभ्रम: |
स्मृतिभ्रंशाद् बुद्धिनाशो बुद्धिनाशात्प्रणश्यति || ६३||
何かの対象物を想うとき、そこに執着が生まれます。執着から欲求が生まれ、欲求から怒りが生まれ、怒りから妄想が生まれ、妄想から記憶が失われます。記憶がなくなってしまうため考えが無能になり、その人が破壊されます。
रागद्वेषवियुक्तैस्तु विषयानिन्द्रियैश्चरन् |
आत्मवश्यैर्विधेयात्मा प्रसादमधिगच्छति || ६४||
しかし、物質世界で動きながら感覚器官を自分の統制のもとに置くことで、好きと嫌いから自由を得て考えも統制されている人は、穏やかさを得るでしょう。
प्रसादे सर्वदु:खानां हानिरस्योपजायते |
प्रसन्नचेतसो ह्याशु बुद्धि: पर्यवतिष्ठते || ६५||
考えが穏やかであるとき、落ち着いている人の知識はすぐに成し遂げられるので、全ての苦しみや悲しみが破壊されます。
नास्ति बुद्धिरयुक्तस्य न चायुक्तस्य भावना |
न चाभावयत: शान्तिरशान्तस्य कुत: सुखम् || ६६||
穏やかでない人にとって知識はありません。穏やかでない人には熟考がありませんし、熟考のない人には平和はありません。平和でない人にとって、どのように幸せがあり得るでしょう。
इन्द्रियाणां हि चरतां यन्मनोऽनुविधीयते |
तदस्य हरति प्रज्ञां वायुर्नावमिवाम्भसि || ६७||
水の上の船を風が運び去るように、動き回る感覚器官につられてすぐに後を追う考えは、識別力がなくその人の知識を奪い去ってしまいます。
तस्माद्यस्य महाबाहो निगृहीतानि सर्वश: |
इन्द्रियाणीन्द्रियार्थेभ्यस्तस्य प्रज्ञा प्रतिष्ठिता || ६८||
それゆえ、力強く武装されたアルジュナよ、全ての対象物から感覚器官を引き下げられた人の知識は安定し、しっかりと留まります。
Bhagavadgītāとは神の詩という意味
Rāgaとdveśaを識別し落ち着いた考えになった時、自己の本質であるこの知識が理解できます。
そのためには日々のkarma yogaをする中で、論理的思考を養い、演繹的推論と帰納的推論を使って物事を正しく客観的に見る習慣を身に付けていく必要があります。
物事を最も客観的に見るという時、それはあらゆる物事がĪśvaraであることを見るupāsana(ウパーサナ)から始めて、聖典の言葉をguruから教わり対話するśravaṇa(シュラヴァナ)、分析的に考えるmanana(マナナ)、明確な理解にしていくための熟考、nididhyāsana(ニディッデャーサナ)をすることで考えの浄化、antaḥ karaṇa śuddhi(アンタハカラナシュッディ)を得ることができ、無知が取り払われた考えにはこの知識が当然の如く明晰な理解となりmokṣaへと到達するのです。
その自分自身とは何者なのか、自己の本質であるこの知識を学びながらkarma yogaという手段も同時に実践していくことによって考えの浄化が進んでいきます。
そうして気がついた時には、様々な苦しみや悩み、不安や恐れから解放され、すでに満たされている自分自身こそがまさに幸せという言葉の意味であることに落ち着いているでしょう。
Bhagavadgītāはたくさんの翻訳本が出版されていますが、その中には間違った解釈のものも多く、本来の意味を失ってしまっているものもあります。
独り善がりの幸せを体験することが目的ではありません。正しく物事を客観的に見る知恵の目を養い、世界をあるがままに見て生きとし生けるものも世界もすべてはたった一つのĪśvaraであり、論理的思考をもって個人 jīva(ジーヴァ)と神 Īśvaraの同一性と調和であるaikyam(アイキャム)を理解することです。そして移り変わるものは自立して存在することはできず、不変の存在に依存しています。その不変の存在は、それらすべてに遍く行き渡り浸透し、何にも頼らず自立しており、すべてを支える基盤であり、それがたった一人の意識であることを理解するのです。そのため、本を読んで終わるものでもなく、独学で学ぶものでもありません。
この宇宙の始まりから一貫した教えを受け継ぎ、保護して守りながら伝承してきた言葉が持つ本来の意味をそのままに、そして方法論を正しく使って教える手段によって考えの浄化が起こり、自己の本質を明確に理解できるようになります。
そして、一人一人の理解力やレベルに合わせて誰もが置いてきぼりにならないように教えてくれるのが本当のguruであり伝統の教えの学び方です。
Bhagavān(バガヴァーン) = 神、gītā(ギーター) = 詩
Bhaga + vat(ヴァット) = Bhagavat(バガヴァット)で、音のつながり、sandhi(サンディ)によって後ろにある言葉のgītāが付くとBhagavad(バガヴァッド)に変化しBhagavadgītā(バガヴァッドギーター)となります。
Bhagavānとは、6つの絶対的な美徳、bhaga(バガ)という言葉に、持つ者という意味のvatが付いた男性名詞です。第1格単数の活用語尾が付いてBhagavānになります。
भगः अस्य अस्ति भगवान् इति भगवान्
bhagaḥ asya asti iti bhagavān
バガを持つ者をバガヴァーンと呼ぶ。
-----Viṣṇu Purāṇa(6.5.74)-----
ऐश्वर्यस्य समग्रस्य वीर्यस्य यशसः श्रियः।
ज्ञान वैराग्ययोश्चैव षण्णां भग इतीरणा॥
aiśvaryasya samagrasya vīryasya yaśasaḥ śriyaḥ ।
jñāna-vairāgyayoścaiva ṣaṇṇāṁ bhaga itīraṇā ॥
完全かつ絶対的な統括力、権力、富、平静さ、名声、知識を「Bhaga」と呼びます。すなわち、jñāna(ニャーナ):すべての知識、vairāgya(ヴァイラーギャ):完全な平静さ、vīrya(ヴィールヤ):創造、維持、解消の能力、yaśas(ヤシャス):絶対的な名声、śri(シュリ):すべての富、そしてaiśvarya(アイシュヴァルヤ):統括力です。
すべての知識、jñānaを持つことは、すべての無知から解放されることです。したがって、すべてのjñānaを持つ者は、知るための心や知覚、知識の手段を必要としません。もし、知るために心を必要とするならば、そこには必ず無知が存在します。知るために心を備えている者は、Bhagavānにはなれないのです。Bhagavānと同一化することがどのように可能なのかが説明されています。したがって、bhagaとは、すべての知識であるjñānaのことです。
完全な、絶対的な平静さもまたbhagaと呼ばれます。完全で絶対的な平静さを持つ者、vairāgyaは、切望もなく不安もありません。彼は満たされています。Vīryaは絶対的な力、または創造、維持、解消する能力を意味するśakti(シャクティ)です。この絶対的な力を持つ者は、全能者と呼ばれます。
絶対的な名声、yaśasは自分自身や他の人のものも含めてすべての名声を意味します。これもbhagaです。例えば、歌の才能に恵まれた人は、ある程度の名声、一筋の栄光を得るかもしれませんが、その名声はすべての名声を持つ人である神に属します。神はまた、すべての富、すべての資源、つまりśriを有しています。あなたが持っているどんな富も、本当は神であるBhagavānのものであり、あなたはたまたま持っている資源の管理人に過ぎないのです。
最後に、誰にも操られず、誰からも支配されない者はaiśvaryaというbhagaを持ちます。私たちは、個人として自然の法則に従わなければならず、それに逆らうことはできません。火力発電所の計画、試運転、運営を担当するエンジニアでさえ、発電させたからといって技術者が好き勝手なことをしてはいけないのです。そもそもエンジニアが電気を起こせたのは法則があったからに他なりません。
他人の法律や法則に自分を従わせない者が神なのです。もし神が他の誰かによって支配されるなら、その他の誰かが神になるのであり、私たちが話しているのはこの神についてなのです。この6つの絶対的な美徳がbhagaを構成し、この6つのbhagaを持つ人がBhagavānです。
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Bhagavānは、bhagaという究極の6つの側面の徳を持った人、つまりĪśvaraのことです。
Bhagavānが人の姿であるKṛṣṇaとしてこの世界に現れ、宇宙の真理、すなわち自己の本質を説くのがBhagavdgītāです。KṛṣṇaはViṣṇu(ヴィシュヌ)神の化身、avatāra(アヴァターラ)であるといわれています。
