- 自然の摂理 森羅万象 法則と秩序
- Dharma(ダルマ)とAdharma(アダルマ)
- DharmaはĪśvara
- DharmaはĪśvara
- 自由意志
- Dharmaの普遍的と相対的
- 4つの選択肢
自然の摂理 森羅万象 法則と秩序
Īśvara(イーシュヴァラ)とは、宇宙の法則そのものとしてあらゆる出来事の原因と結果を司るものであり秩序です。人間が造ったものではなく、宇宙の始まりからあるものです。この世界で生き物が子孫繁栄して古代から現代までこの地球上に生存していることも人間の手で操作していることではありません。たとえ生殖医療が進んで人工授精したとしても、その受精卵が成長し、元気に生まれ生きられるかどうかは人間の手の内にはなく、その法則に調和していくことを選択できるだけです。
私たちが生きているこの地球は、果てしなく広がる宇宙のほんの小さな惑星です。この広大な空間の中で地球と太陽と月の位置が決まっていることは誰もが知っている当然のことです。しかし、それは誰が造ったのか、どうしてそれが維持されているのかと不思議に思ったことが一度はあるのではないでしょうか。
その法則そのものがイーシュヴァラです。
地球が自転しながら太陽の周りを周ることによって、明るい日中と暗い夜の時間があります。それが1年間365日周り続け、地球の自転軸が傾くことで、日の出や日没の時間が日々変化して日本では春夏秋冬を感じることができます。
また、日中と夜の配分が決まっており、私たち生物は太陽からエネルギーをもらって活動しています。そして人間は夜間就寝することで成長ホルモンが分泌し、細胞修復して疲労回復することができます。おおよそ24時間の周期で変化するサーカディアンリズム(概日リズム)もĪśvaraです。個々の人間がĪśvaraに調和することができない時、不眠やストレスとなって心身の不調をきたしてしまいます。
そして、太陽や月だけではなく、雨や雪が必要な時に必要な場所に降ることもĪśvaraです。大地と海の水が太陽の熱によって水蒸気となり、上昇気流に乗って空高く気温の低いところで雲となり、風に運ばれて乾いた大地に雨や雪を降らせます。それによって植物が成長し、人間の健康も保持できます。人間も植物も細胞から成り、核の中に遺伝子や染色体があり細胞膜に覆われています。人間は何十兆の細胞によって成り、食べた物によって身体が作られています。
生き物の生命が終わりを迎え亡骸になると、大地の微生物によって分解され栄養素となり植物が汲み上げます。植物は私たちの生命を支えるための食べ物になり、その植物には栄養素が多く含まれています。私たちは呼吸をして酸素を体内に取り込み栄養素を身体中に巡らせ代謝し、エネルギーを産生して活動しています。使い終わったエネルギーの代謝産物が二酸化炭素として吐き出されます。その二酸化炭素によって植物は成長のための光合成をし、その過程で酸素を空間に放出しています。動植物が互いに調和して一つの働きとなり生命維持しています。それが見事に地球を取り巻く大気圏の中で起こっている法則です。同じように地球と他の惑星も相互に支え合う働きがあって一つの宇宙が秩序を保っています。
それもĪśvaraです。
このような自然の法則は、どれだけ科学技術が発達しても変えることはできないでしょう。医学も物理学も数学も、科学がそれらを造ったのではなく、最初からある法則と秩序を読み取り、知識として人間を通して明らかにされているだけです。科学が明かしているのは、物理学的観点からも5%未満です。無限を探求しても一般的な知識には限界があります。無限や永遠の意味を明確にしてくれる道具である唯一の知識がVedānta(ヴェーダーンタ)です。
現代物理学の最先端といわれる量子力学の研究所のCERNがスイスにありますが、こちらで研究されて明らかにされていることは、すでに古代からVedāntaが聖典で明かしてきた宇宙創造の原理とほぼ一致しています。
Śivaが神を振り乱して踊り狂う姿のNatarāji像は、宇宙創造を表しています。踊り狂っている間は素粒子が回りながら新たなものが創造と維持、破壊を繰り返しており、Natarājiが踊り疲れて眠る時、この宇宙全体も眠りにつくmahā pralayaを迎え、何も現れていないように見える潜在的なものだけが残り、再びNatarājiが目覚めて踊り始めるとこの宇宙創造が始まります。それがkalpaといわれる一つの時代が終わりと始まりを迎える時です。
そのNatarājiの像がインド政府によりスイスの量子研究所CERNに送られました。そして、そこのスタッフたちによって作成されたイメージ動画はまるでNatarājiが踊り狂っている様子を描いたようなものになっています。
結局のところ、真実はいつの時代も明かされているにもかかわらず、それがまるで秘密裏に隠されてしまっているかのように表には出てきませんが、どの時代においても真実を明かし続け、それを理解できる人々によって守られてきた知識です。ようやく科学がこの真実に一歩近づいてきたのです。
Dharma(ダルマ)とAdharma(アダルマ)
その法則であるĪśvaraに調和することをdharma(ダルマ)といいます。この物理的宇宙にあるものは全て創造されては維持された後消滅し、一定の質量で満たされています。
人間がĪśvaraに調和した行いをすれば、動植物にとっても過ごしやすい環境を維持し生態系を保つことができます。しかし、この法則に人間が逆らって、人間の都合の良いよう必要以上に植物や動物を搾取すれば、生態系が不均衡になり、自然破壊が起こり生き物にとって生活しづらい環境となり、結果的に人間にとっても心身ともに健康に過ごせる環境を失っていきます。Īśvaraに調和をせず、抗った行いをすることをadharma(アダルマ)といいます。
料理をするとき、火にかければお湯が沸き、塩やスパイスを入れれば味がして美味しくなり、体に必要なミネラルを摂ることができますが、入れ過ぎれば美味しくなくなり身体を害することになるのも法則です。美味しい食事を作るための火も、直接触れれば皮膚を焼き、組織が露出して痛みや細菌感染を引き起こします。全ての物事の性質を知り、それを適切に扱うことが必要です。
自然環境においてだけではなく、人間関係や仕事や家庭などでの役割の中にもこの法則であるĪśvaraによってすべてが成り立っています。
Dharmaは人間の本質
自分がされたら嬉しいことと嫌なことを、相手の立場になってすること、しないことを考えて行いをすることです。それが思いやりの心で相手を慮り、その人の喜びや悲しみを自分のことのように感じる慈悲です。あなたが相手の気持ちになって優しさでしたことや、相手に寄り添って共感的になり話を聞くことだけでも、人は心の痛みや悲しみが軽減し安心していきます。それがdharmaであり人間が本来持っているĪśvaraそのものの性質です。
DharmaはĪśvara
たった一人の人間が誰かに対してした行いが相手を喜ばせたり悲しませたり、助けることもあれば傷付けることもあります。自分がしたことで相手が喜べば自ずと喜びになるのがdharmaでありĪśvaraです。嫉妬から怒りや相手を不快にさせる行いをすれば相手も嫌な態度をしてますますあなたは怒りになります。それがその場で返ってくる結果です。
しかし、目に見える結果だけではなく、その行いの結果は見えない種として蓄えられています。今世の行いだけではなく前世から引き継がれる膨大な行いの結果があり、それが人生を作り出しているのです。良い行いの結果をpuṇya(プンニャ)、悪い行いの結果をpāpa(パーパ)といい、喜びや快適さとして得られるものはpuṇyaが実っていて、嫌なことや不快として起こることはpāpaが実っています。そのどちらも統括しているのがĪśvaraですが、dharmaを選択すればするほど他者も自分も喜ぶ結果となり、それがĪśvaraを喜ばせるために捧げる行いでもあり、最も欲しいものを望む純粋さと、それを達成するための考えを浄化する結果をĪśvaraから与えられます。
自由意志
人間に生まれることは膨大なpuṇyaが実っているといわれています。なぜなら、人間にしか論理的に考え言葉を巧みに扱うことができず、この宇宙の法則であるĪśvaraに調和することもできるし、不調和を起こすこともでき、行いの選択をすることができる自由意志を持っているからです。その選択を自分たちの都合の良い考えだけで欲しいものを手に入れようとすることで、誰かを傷つけることや奪うことがadharmaになります。
その結果がこの地球上だけではなく宇宙全体に影響しているのです。明らかに誰から見ても悪いことは犯罪としてその国の法律によって裁かれ懲罰を受けることになりますが、その法律も元々は宇宙の始まりからあるĪśvaraです。Dharma śāstra(ダルマシャーストラ)という聖典があり、世界中の国の文化の中で発展していきました。
本来人間はそれをしてはいけない、それはした方が良いという道徳的価値観を持っています。しかし、今世だけではなく前世からの記憶を通した考えが妨げとなって、自分の欲求を叶える執着が優先になり、その考えが邪魔をして道徳観や倫理観が薄れてしまい、自分たちさえ良ければ人に迷惑をかけても関係ないと思う人たちもいます。エントロピー増大の法則のように、そういう人たちが増えれば増えるほど世界中に蔓延して無秩序な環境や人間関係となり、社会全体が混沌とし、環境破壊や世界中で争いごとが起こるのです。それが宇宙全体に影響して、今生きている私たちが忘れた頃に結果として実ります。湖に小さな小石を投げ込むと、中央から外側に向かって波紋が広がり、その淵まで行き着くとその波は中央に向かって波打ち、投げ込まれた場所まで戻るように、その人のした行いがその人にいつしか返ってきます。宇宙全体、社会全体に役立つ一石を投じることが大切です。
Dharmaの普遍的と相対的
Dharmaには普遍的なものと相対的なものがあります。
普遍的:自然の法則、思いやりと優しさ、慈悲深さ、誰もが常識として共通認識できるもの
相対的:それぞれの国や家庭で定められているもので、共通ではないことも多い
相対的なdharmaには間違いがたくさんあります。その人独自の間違った観念から生じる常識は、他者を蔑みひどく非難し、深く傷付けることがあります。どのような場面でも、自分の常識が正しいとは限りません。普遍的なdharmaこそがĪśvaraであり選ぶべきものです。
4つの選択肢
私たちが何かをするとき、選択があります。その時に現れるのは愛着、rāgaと嫌悪、dveśa、そしてdharmaとadharmaです。いつでも迷うことなくrāgaとdveśaを識別しdharmaを選び取れる人間に成長していくことが人生の意味です。それがĪśvaraへの愛であり、知識を学ぶことによってそのĪśvaraとは自己の本質であることを明確に理解する知性となり、人生の結論に到達します。


