宇宙の始まりからある叡智

VEDĀNTA

  • Vedānta(ヴェーダーンタ)とは
  • Vedāntaを学ぶこととは
  • Ātmā(アートマー)とanātmā(アナートマー)
  • Brahman(ブランマン,ブラフマン)とmāyā(マーヤー)
  • puruṣa(プルシャ)とprakṛti(プラクルティ)
  • Parokṣajñāna(パロークシャニャーナ)とaparokṣajñāna(アパロークシャニャーナ) 間接と直の知識
  • 論理的思考が必要
  • Vedaの分類
  • Upādāna kāraṇa(ウパーダーナカーラナ)とnimitta kāraṇa(ニミッタカーラナ)

Vedānta(ヴェーダーンタ)とは

Veda(ヴェーダ):知識 + anta(アンタ):終わり = Veda anta(ヴェーダアンタ)  = sandhi(サンディ)、音のつながりによってVedānta(ヴェーダーンタ)となります。
Veda文献の最後で教えられている真実の知識、個人とは何か、神とは何か、そして宇宙とは一体何か、それらを論理的に展開してワンネスに到達する知識です。

人間が最終的に追い求めるものは、自分こそが幸せの根源であるということです。それを知るために法則や秩序に従った生き方の中で、それを司る神を想い、全てにおいてその神を見て全ての行いを神に捧げ、神から与えられていることを理解し、ありとあらゆるものが一つで回っていることを見ていくことがKarma yoga(カルマヨーガで、前半の章で教えられていることは、その生き方の手引きです。
それによって考えが整うことをantaḥ karaṇa śuddhiといい、綺麗になった考えに最後の結論が理解されます。
すでに幸せであることを理解すれば、他の何かになりたい願望であの世とこの世を繰り返すsaṁsāra(サンサーラ)から解放され、今世の残りの人生を安心して幸せの源である自分がありのままに生きること、それがmokṣa(モークシャ)といわれる自由、解放です。

Vedāntaの文献はUpaniṣadとも呼ばれ、Uttara Mīmāṃsā(ウッタラミーマンサー)によって十分に審議された正統なものが108あります。それをśruti(シュルティ)といいます。その内容と同じ価値が認められている文献をsmṛti(スムリティ)といいます。Vedāntaを学び理解した聖者たちによって残されたśrutiとsmṛtiに準じた内容の様々な小さな聖典があり、それをprakaraṇa(プラカラナといいます。代表的なものはTattva bodhaḥ(タットヴァボーダハ)Ātma bodhaḥ(アートマボーダハ、Ramana Mahaṛṣi(ラマナマハリシ)が残したUpadeśasāra(ウパデーシャサーラ)などがあります。

その中でも、真実の知識に特化して教えられているものが12あり、そのうち10のUpaniṣadにそれぞれ偉大な聖者 Śankarācārya(シャンカラーチャーリヤ)が解説、vāsya(バーッスャ)を付けました。インドでも多くの聖者によってこの知識が受け継がれてきました。そこで学んだ方々が先生となって教え継ぎ、その教えを正しく理解した人がまた先生となり受け継がれています。また、クラスでスワミジが話された内容を生徒が文字起こしし、テキスト化し製本されてきました。

人それぞれの知性の成熟度が異なりますので、その人のレベルに合った喩え話や、日常でできるカルマヨーガの実践方法などを教わりながら内面的な成熟を促していきます。

Vedāntaを学ぶこととは

Karma yogaによって行いを祈りに変え、足りない感覚によって求めることから自由になり、外側に安心や喜びを得ようと行いをしていた自己認識を持つ小さな観念を手放し、自分自身が無限であり永遠の幸せであると理解するmokṣaへの願望が一番になる人をmumukṣu(ムムクシュ)といいます。その人は自己の知識を探求し、mokṣaを叶えるための準備の生き方をしながら知識を学ぶことに喜びがあります。知れば知るほど安心が日常になり、まるで小さな個人とĪśvara(イーシュヴァラが分かれた違う存在であると思っていた未熟さから、すべてにĪśvaraを見ることができた時、ただ喜びの自分があることを理解していきます。

そのためには、今まで知識を得てきた内側の道具、pramāṇa(プラマーナ)である感覚器官と心、pratyakṣa(プラッテャックシャ)によって外側の対象物を感覚器官を通して知覚し、心でanumāna(アヌマーナ)、認識し推論しています。それを目撃し証人しているsākṣi(サークシー)によってあらゆる知識を明かしてきました。しかし、それらは外側の対象物に対する道具ですが、対象化できない自己の真実を明かすためには、もう一つのpramāṇaを付け加えなければなりません。

それがvedāntaでありVedānta pramāṇa(ヴェーダーンタプラマーナ)と呼び、Guruを通して話される聖典の言葉の数々です。それに対して信頼、śuraddhā(シュラッダー)を持っていることがmumukṣu(ムムクシュ)です。

Ātmā(アートマー)とanātmā(アナートマー)

知識を学ぶことによって自分であるātmā(アートマー)と自分ではないanātmā(アナートマー)、真実であるsatya(サッティヤ)と、あるとはいえないけれどないともいえないmityā(ミッティヤー)sat(サット)asat(アサット)など、真実と真実ではないものを識別していき、物理的に現れた物事は全て真実に頼っている一時的なものであると理解することです。

Brahman(ブランマン)とmāyā(マーヤー)

何一つとっても、姿形や名前が違っていても源である絶対的で永遠であり移り変わることなく存在し続けるBrahman(ブランマン)が満ち満ちており、Brahmanではないものも場所も人もありません。Brahmanだけがあります。

そのBrahmanが、望む力、行動する力、知る力としてすべての可能性であるmāyā(マーヤー)とともにあり、ひとつの宇宙の姿として現れないものと現れているものが共にひとつに廻っている法則がĪśvaraです。

Puruṣa(プルシャ)とprakṛti(プラクルティ)

Dharmakarmaの法則としてすべてを統括している1人の人をpuruṣa(プルシャ)と呼び、その人が知識の源であり、すべての質の源、prakṛti(プラクルティ)を伴って変化する世界としても現れています。Prakṛtiとは、sattva、rajas、tamasという3つのguṇaである質の源です。それらによってすべての現象や物理的世界、人間の思考も現れて移り変わっていきます。

Parokṣajñāna(パロークシャニャーナ)とaparokṣajñāna(アパロークシャニャーナ) 間接と直の知識

Guruの言葉によって間違った観念が破壊されていき、自己を明かすための言葉の数々を日常的に熟考瞑想、nididdhyāsanaをし、間接的な知識、parokṣajñāna(パロークシャニャーナ)として理解し、その自己が自己であると理解する直接の知識、aparokṣajñāna(アパロークシャニャーナ)にしていきます。それが完全なる自己証明であり自己受容です。

個のjīvaと、神であるĪśvaraが同一で別れた存在ではないことを理解し、正しい自己認識を持ち社会から得ようとするための行いをする生き方からパラダイムシフトが起こり、与えることのできる貢献者として喜びに生きることができます。知識が実れば完全に自由です。何も苦しみになることはありません。全ての苦悩が取り除かれます。その人は人生ですべきことを全て成し遂げ終えた人となります。

論理的思考が必要

全てのABである(ではない)、CAである(ではない)という大前提から、ゆえにCBである(ではない)と結論する大前提、小前提および結論という3個の命題を取り扱う演繹推論がありますが、主体である自己を理解して思考や感覚を客体化する際、全ての自我は自己であるが自己は自我ではない、思考は自我であるが自我は思考ではないという大前提から、思考は自己であるが自己は思考ではないという三段論法と止揚によって結論が導き出されます。

Vedāntaの場合、Ātmāとanātmāの関係で見ていくと、BはAであるが、AはBではないというのが大前提です。そのプロセスで客観的に物事を見る習慣がないと、主観的な間違った結論になりかねません。

科学的なプロセスにはアルゴリズム化されている場合も多く、それに従って思考していくことで間違いは少なくなりますが、アルゴリズムだけで結論を導き出せるわけではなく、非科学的なことも含め膨大な情報を思考し操作しています。それが演繹的推論です。また、目の前の事例に対してカテゴリー化された情報の中から類推しますが、膨大な情報は枚挙に遑がないため一般化された情報と大凡同じであると判断し行動に繋げています。類推の際にも客観性がないと間違った推論になり、行動も間違うことがあります。

噂話やSNS情報の多くは客観的事実とは異なり、その人の都合の良い解釈や情報収集する確証バイアスが働き、主観的な体験や情報で、こうするとこうなるという利用可能ヒューリスティックにより、短絡的に思いつきで行動する人も現代社会には多く見られます。メタファーや文脈理解では、論理的思考が正しくできる場合にはそれらも概ね正しい結論に至り、道徳観や倫理観との一致や人々との共通認識になりますが、具体的な事象に囚われ過ぎると思考の柔軟性を損ね、メタファーも文脈も理解できず間違った判断や行動に繋がる場合もあります。常に物事を見る際に現れた具体的事象と一般化された抽象の間で、ボトムアップとトップダウンを繰り返し、客観性を養い思考力を鍛えることで能力が高まっていきます。このような思考能力を高めてくれる技術がVedāntaの随所で見られます。それが正しい伝統の教え方であり、方法論です。

このような演繹推論と帰納推論が正しく働くよう客観的な見方を養い、論理的思考をしっかりと身に付けることが必要です。間違った観念を上乗せして自分と世界に間違った認識を重ねていても、自分の一番近くにあるものがその観念であるため、自分で気がつくことはできません。Guruの教えと気付かせてくれる導きが必要です。

Upādāna kāraṇa(ウパーダーナカーラナ)とnimitta kāraṇa(ニミッタカーラナ)

この世界、jagatにあるものは全て姿形を変えて移り変わりながら一定量が維持されています。それらの形あるものは皆、118の原素に集約されます。例えば、私たちの身体は60兆個ともいわれる細胞から構成されており、それらはアミノ酸配列から成るタンパク質です。タンパク質の元素は炭素です。炭素は陽子と中性子から構成される原子核のことです。その原因を見ていくと、クォークという3つの素粒子から成ります。

人間の体以外にもこの宇宙にあるものは全て、この素粒子からできています。この自然界にある4つの力は、重力、電磁気力、弱い力、強い力ですが、これらのエネルギーが働くためにも素粒子が関与しています。では、その素粒子がこの宇宙の力になるためには、現れては変化し、やがて消滅することを繰り返しているわけですが、その現れるための原因、場所はどこかというと、まずは空間に現れています。

ここまでは物理学的にもいわれていることですが、Vedāntaでは、この微細なエネルギーの世界を含む物質的宇宙は5大要素から成るといわれており、それが空間、風、火、水、土という要素です。全ての物質が素粒子から成り、姿形を変えて様々な名前と形に変化するためには、これらの要素が必要です。それは目に見える物質界だけではなく、精神性や物質的なものが現れるための背景などを含む微かな世界としても素粒子が働いており、5大要素によって支えられています。

その5大要素が現れるためにはさらなる原因が必要です。その原因をmāyāといいます。Māyāは全ての原因であり、そこから空間、風、火、水、土という5大要素が現れます。それがsatva、rajas、tamasという3つのguṇa(グナ)、質の源でもあり全ての可能性であり力、māyā śakti(マーヤーシャクティ)です。その移り変わりを支えている最も動かないもの、移り変わることなく滅びることのない存在がBrahmanです。そのBrahmanmāyāを使ってこの宇宙を司っているその存在をĪśvaraと呼び、この宇宙の法則として秩序としてこの世界に現れている神の名前です。

言い換えれば、あらゆる物質や事象が名前と形としてこの世界に現れるためには、物質的原因、updāna kāraṇa(ウパーダーナカーラナ)が必要であり、さらに、物質的原因がそこにあるためには知識が必要であり、それが知的原因、nimitta kāraṇa(ニミッタカーラナ)です。その二つあるように見える原因が、真実として知的原因、nimitta kāraṇa(ニミッタカーラナ)一つであること、その存在を神、Īśvaraといいます。

Māyāpariṇāmi-upādana-kāraṇa(パリナーミウパーダーナカーラナ)、変化を受ける物質的原因です。ĪśvaraBrahmanはその原因であり、vivarta-upādāna-kāraṇa(ヴィヴァルタウパーダーナカーラナ)、全く変化を受けることのない基盤でありこのmāyāに対する原因です。このprakṛtiによってのみ、行いが実践されるとBhagavānは言います。

私たち人間が生き物の中で最も自意識が高いため、人と人、他の生き物、集団などと分かれているように捉えられるため、比較や競争、上下や優劣などを付けて高揚したり落胆しているのが人生です。本当は小さな存在のように見える個人、jīvaĪśvaraと同じであるとういう真実を理解することによって、あらゆる根底にある問題が解決します。

その等式を論理的に見ていくことがVedāntaの学びです。あらゆる捉えているものは対象であり、それらを否定した上で最後に残るものは対象化することのできない自己、Ātmāです。そのĀtmāがすべての基盤であり、それに頼ってありとあらゆるすべてが現れているため、そのすべてにĀtmāが満ち満ちています。そのためĀtmāではないところがないのがこの宇宙です。それが、BはAであるが、AはBではないという理由です。

科学的なものの捉え方は、この世界の法則を見るのに役立ちます。しかし、最先端の現代科学においても、最小単位である素粒子の現れる原因までは発見できていません。そして、科学で探究しているのは外側にある対象物のみです。そのため、自分自身がこの宇宙の原因であるというVedāntaが教える究極の真実は、科学や他の知識では到達することはできません。ですから、この世界に現れた物事を分析的に見る力と共に、それだけではすべてを説明することはできないことを十分理解し、現れた物事を一旦否定した上で感覚器官や思考で捉えることのできない真実の知識を理解し、さらに否定した物事をそれに統合していく止揚の技術が大切になります。その思考によってすべてが理解できます。捉えられない自己の本質を学び、それがすべてを支えている源であると理解すると、そこからは逆説的に今まで自分ではないものとして識別してきたあらゆるものがĪśvaraであり、すべて同じ源から現れて源に解消していく一つの存在であることを見ていきます。

行いをkarma yogaに変えて考えを浄化し、無知によって重ねている間違った観念を識別し、samatva(サマットヴァ)、すべてに同じたった一人のĪśvaraを見ることができれば、当然の如く最後の結論を理解することができます。そうして他に安心と喜びを求めて幸せになろうとしていた生き方から、何かを求めなくとも今この瞬間、自分こそがすでにありとあらゆる制限から自由であり常に限りのないananta(アナンタ)ānanda(アーナンダ)、満足と喜びの本質であるという結論に至り、永遠であり移り変わることのない究極の幸せな存在である自己にとどまることができるのです。

 
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