- Yoga(ヨーガ)の語源
- Yogaとは
- Yogaの4つの手段
- Yogaの2つの道
- Puruṣārtha(プルシャールタ)とParamapuruṣārtha(パラマプルシャールタ)
- 2つの投影
- 5つの人間の苦悩
- Ātmā(アートマー)とanātmā(アナートマー)の識別
- 祈り
- Bhaktiの4つのレベル
- Karma yoga(カルマヨーガ)
Yoga(ヨーガ)の語源
Yoga योग(ヨーガ)の語源はyuj युज्(ユジ)という動詞の原型です。日本語ではヨガということがありますが、サンスクリット語では、「o」は2拍の長母音となるため、ヨーガと伸ばすのが正しい言葉です。
to concentrate the mind:心を集中させる、to unite:結合する、一体化する、to appoint:備える、指名する、to prepare:準備する、to give:与える
これらの意味があります。
Yogaとは
自己の本質の知識を理解できるよう知性を備えるための生き方のことです。単に神と合一する、一体化するというものではなく、個人とは、神とは何か、その同一性とはどのような意味なのかを論理的に展開し、自分が自分であることを明確に理解するための明晰さを培い、思考や感覚器官では捉えられない真実を理解するための準備の生き方がyogaです。
Yogaの4つの手段
Yogaの中には
- Karma yoga :カルマヨーガ :行いのヨーガ
- Dhyāna yoga:デャーナヨーガ:瞑想のヨーガ
- Bhakti yoga :バクティヨーガ:献身のヨーガ
- Jñāna yoga :ニャーナヨーガ:知識のヨーガ
と呼ばれるものがあります。それぞれ別の道ではなく、ヨーガの生き方の中に含まれており、それらすべてが一つの道です。
私たちは自分が幸せであると知るために生まれ、人生を歩んでいます。その中で、様々な人や状況に出会い、困難さや痛みや苦しみ、悲しみや、時には舞い上がるような喜びがやってきては色褪せ、移ろい、やがて失います。そしてまた、悲しみがやってきます。その中に安心や幸せになれるものを追い求めて、失ってはまた追い求めることを繰り返しています。
Yogaの2つの道
それは世界が自分を幸せにしてくれるものであるという幻影を抱いているがゆえに、何かを得て安心や満足になる、これをすれば喜びや幸せになれるといった生き方をしています。
それをpravṛtti mārga(プラブルッティマールガ)と呼び、外的要因に頼って安心や喜びを得て幸せになろうとする生き方です。その根底には、安全ではない人、喜びや幸せではない人など、自分は限られた小さな存在であるという自己認識があるため、安心や幸せになるために一時的な何かを手にすることを追い求めるのです。
私たちが人間に生まれて本当に追い求めるものとは何か。それに気づいて外的要因に依存することなく、何にも頼らずに存在している自分自身とは何者なのか、その知識を追い求めながらすべての現象を司るĪśvaraと調和した生き方をnivṛtti mārga(ニブルッティマールガ)と呼びます。
Puruṣārtha(プルシャールタ)とParamapuruṣārtha(パラマプルシャールタ)
人間が追い求めるもの、Puruṣārthaには4つあります。
- Artha :アルタ :何かを得て安心や安全になろうとすること
- Kāma :カーマ :喜びや快楽のために何かを得ようとすること
- Dharma:ダルマ :幸運や成功を手に入れることも含む秩序や法則に沿って調和する喜び
- Mokṣa :モークシャ:自分自身の知識を完成させ個人の観念から自由になり、苦悩から解放される
Dharmaに従うことなしにarthaとkāmaを得ようとすると、恐れや不安から何かを得るため、もしくは失わないためにますます忙しなく行いをしていきます。自分を誤った評価で取るに足らないと認識していると、他者への嫉妬で人を蹴落とし失墜させるためにあれこれ考え手を回したり、自分は傷付けられたと怒りや悲しみになり、結果的に人を傷付ける行為をしてしまいます。Dharmaに従った行いをすることで安心と喜びが同時に得られるようになります。
初めのうちはdharmaに従うことを義務や法として圧力を感じながら行うかもしれません。内面的な成熟をすればするほど、自然の法則に調和していることが心地良く、人の助けになれたことに喜びを感じ、その法則や秩序である神 Īśvaraに調和したdharmaに生きる方が優先になり、その人の自然な習性になってきます。
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- Dharma
- Artha
- Kāma
そうすると優先度が変わってくるので、最も選ぶべきものはdharmaであることを理解し、4つ目にある本当は誰もが追い求めている最も欲しいものが見えてきます。人間に生まれたからには最も望ましいもの、外的要因に頼らず自分とは幸せであるという結論に至る、それが4つ目のmokṣaであり、人が追い求める究極のもの、paramapuruṣārthaです。これら4つは別々に追い求めるものではなく、dharmaを選び生きる人はarthaもkāmaも手に入れることができます。さらに、mokṣaを選ぶ人には他の3つも同時に手にすることができます。
生きているとどうしても外側の物質やお金、人や環境などをやり繰りして、富や成功を得ようと追い求めていきます。それが悪いことではなく、そこに執着が生まれると手に入らないことや失うことへの恐れや不安から怒りや悲しみ、誰かと比較しては劣っていると落ち込み自己否定し、優っていると思えば傲慢さや虚栄心が強くなります。
自分で自分を認められず蔑むことが他者に投影され、自分への価値観を他者に重ね認められず嫉妬や妬み嫉みなどの歪みが生じ、主観的な見方を上乗せして悪口や悪評を吹聴してまわり他者の評価を下げて自分を優位に立たせようとします。そのような思い過ごしから争いごとが起こります。また、その上乗せによって同じものに違いを見るために、自分が信念を持っているものと他者が信念を持っていることにも優劣を付けてしまいます。
本当に求めていることは、実際には外側の物理的なものでもなければ他者との比較でもないのです。何かを得て喜びや安心なのではなく、自分こそが移り変わることなく満ち足りていて、限りのない幸せの源、ānandaであるということを理解し、arthaもkāmaもdharmaも全て含んでĪśvaraから与えられる必要なものを手にして喜び、手に入らないものには執着を識別して無くても大丈夫であることを理解する冷静さを養い、自分を苦しませる根源である自分の考え、個人の観念から自由になることです。それによって今まで上乗せして見ていた投影、āvaraṇa śaktiを識別して、ありのままの事実を客観的に見て、すべてがたった一人のĪśvaraであり、そのĪśvaraと個人の私は全く離れてはおらず、その部分でもない同一の無限の存在であることを理解し、自分を制限して苦しめていた個人の観念から自由になり、そこから起こる苦悩から解放されることです。
2つの投影
この世界と自分を見る時には、2つの投影があります。一つは一次的な元々あるもので、自然の法則によって広がるこの宇宙全体の創造を見ることができる投影、つまり、現す力であるvikśepa śakti(ヴィックシェーバシャクティ)です。もう一つは二次的で、個々の考えに起こる記憶を通した上乗せ、adhyāsa(アッデャーサ)によって外側の世界や人と自分にも間違った捉え方をする投影、つまり、ありのままを隠す力であるāvaraṇa śakti(アーヴァラナシャクティ)があります。私たちは自分自身が何者なのかを知らない無知ゆえに、自分自身と自分ではないものの間に混乱があるため、あらゆる物事に間違った上乗せ、adhyāsaがあります。その混乱を取り除くことが人生で必要なことであり、自己の真実の知識であるbrahma vidyā(ブランマヴィッデャー)によって破壊されます。そのための生き方をyoga(ヨーガ)といいます。
5つの人間の苦悩
人間の苦悩は5つあるといわれています。
- Avidyā :アヴィッデャー :無知
- Asmitā :アスミター :エゴ
- Rāga :ラーガ :執着
- dveṣa :ドヴェーシャ :嫌悪
- Abhiniveṣa:アビニヴェーシャ:永遠でないものを永遠と間違える
Ātmā(アートマー)とanātmā(アナートマー)の識別
単に執着を手放すことは簡単ではありません。真実の知識が教えてくれることは、手放すのではなく執着になる根本的な原因を解決していくことです。自分であるĀtmā(アートマー)と自分ではないものanātmā(アナートマー)を識別することから始まり、その基盤となるBrahman(ブランマン)こそが全ての源であり、遍く満ちている移り変わらぬ無限の存在であり、それこそがĀtmāであると知ること。そこからすべての物事が創造され、一定期間維持された後に解消していく、その源を論理的に展開し、aparokṣa jñāna(アパロークシャニャーナ)、直接の知識として自己を理解することです。
無知ゆえに自分自身を取るに足らない小さな存在であるという間違った自己認識があり、満たされたい、幸せになりたいと望み、永遠ではないものを外側に追い求めて自分以外の何かになろうとします。それは満たされていないという上乗せした考えから起こる行い手の観念によるものです。しかし、本当は永遠でありすでに安心で満たされている、限りのない幸せがあなたの意味であることを理解すれば、今までそれがあると安心や喜びになると思っていた物事への執着は解消していきます。
その知識を少しずつ学び理解していくことで、その執着から起こる怒りや悲しみ、嫉妬や自己卑下や劣等感からも、虚栄心や自慢からも自由になります。その結果、ありのままの自分から世界をあるがままに見れば、すでに幸せであるということが腑に落ちていきます。
完全な知識の理解が起こり、mokṣaとなるまでがyogaの生き方です。
祈り
祈りがなければ神を想うことはできませんので、自ずとbhakti yogaをすることになり、その祈りをすること一つとっても、それは神に捧げる行いでありkarma yogaです。そして、何に瞑想するのかというと、単なる一時的な心地良い崇高体験をする瞑想ではなく、神という存在と自分が同一化していく作業が瞑想、dhyāna yogaであり、その神を正しく認識するためにこの知識を学ぶことがjñāna yogaです。それがĪśvaraに明け渡し身を委ね、その人を知りたくて溢れる愛が自己の本質で、その姿を自分に顕にすることが祈りであり儀式そのものになる瞑想です。知識なしに本当の瞑想はできません。ですからそれぞれが独立した方法ではなく、karma yogaの中の手段なのです。Bhakti yogaなしにkarma yogaもあり得ません。karma yogaはĪśvaraの認識を小さなエリアから宇宙全体に拡張し、ありとあらゆるすべてがĪśvaraであると認識していくための行いです。
Bhaktiの4つのレベル
帰依者、bhaktiのレベルは4つあります。
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- Arthā:アルター :悲しみ、悲痛の意味で、不快や悩みも含まれます。その悲痛の中にいる時だけĪśvaraを想うこと。
- Arthārtī:アルタールティー:富や権力、子孫などを望み、コネやお金を使って手に入れますが、偶然という要因をコントロールするためにĪśvaraの慈悲を乞い祈ります。
- Jijñāsuḥ:ジッニャース :単なる富や成功を求めるという小さな欲ではなく、究極の原因としてのĪśvaraを知りたいと望む偉大な帰依者です。これは手段や道具としてĪśvaraに帰依するsādhana bhakti(サーダナバクティ)です。
- Jñānī:ニャーニー :個人の姿を装った自己と、世界を維持するViṣṇu神、Parameśvara(パラメーシュヴァラ)の真実としての究極のĪśvaraと完全に同一視し、その人自身で満たされているbhaktiです。絶対的な愛の姿の帰依、parama prema svarūpa bhakti(パラマプレーマスヴァルーパバクティ)といわれます。
真実の自己とは愛そのものです。愛する者と愛されるものに全く隔たりはなく違いもありません。愛は全ての無知を焼き尽くします。その絶対的な愛は知識の姿のĪśvaraでありそれがĀtmāです。その認識をananya bhakti(アナッニャバクティ)といい、他のものがないことを意味します。こうしてすべてが一つの存在であることを完全な認識にしていくための生き方がyogaです。
karma yoga(カルマヨーガ)
すべては与えられているのですから、恐れることも不安になることもなくĪśvaraに捧げる行いをし、求めることからの自由が行い手の観念を識別して自由になることです。自己と神は離れた別のものであると考える二元性から恐れや不安を抱き、外側への欲求が生じ執着を持ちます。真実、自己と神は一つの存在であり知識によってその本質を理解することです。そのための生き方をyogaといい、その手段をkarma yogaといいます。


